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紀貫之

人物叢書『紀貫之』を読んでいます。まだ途中なのに返却期限が迫っている(>_<)。明日までに読めるのかしら・・・。笑

貫之さんは言わずと知れた古今和歌集の編纂者。あの古今和歌集仮名序を書いたことでも有名です。あと、『土佐日記』も彼が女に擬して書かれたという珍しい書物です(和歌の世界では女の気持ちを男が歌うのはよくあることだけど、仮名日記では他に知りませぬ。・・・出家した定家さんはよく仮名文字で日記をしたためているらしいけど形態が全然違うのでこれは別。苦笑)。

まだ、この時代の背景を、頭の中で完全に整理できていないので、詳しいことは書けないのですが(何せ知らない藤原某さんと紀某さんがたくさんでてきて頭が混乱しております。藤原高藤まで出てきた時はびっくりした。勧修寺懐かしい~)、私が一番心に残ったのがややこしい政治の話・・・ではなく、貫之と躬恒との大親友の和歌のやりとり・・・。

七日のあしたに躬恒がもとより
君に逢はで一日二日になりぬれば今朝彦星の心ちすらしも
とある返し
あひ見ずて一日も君にならはねば織女(たなばた)よりもわれぞまされる
●七夕の星に託して一日千秋の思いを述べ合ったもの

凡河内躬恒が月明かき夜来たるによめる
かつ見れどうとくもあるかな月影のいたらぬ里もあらじと思へば
●貫之が親友を独占したい気持ちから人付き合いのいい躬恒がどこへでも出向くことを恨んだもの

躬恒が
まことなきものと思ひせばいつはりの涙はかねて落さざらまし
とある返りごと
惜しからぬ命なりせば世の中の人のいつはりになりもしなまし
●躬恒がどうせきみに真実の友情なんか無いと思っているから空涙など落とさないでくれと駄々をこねたのに対して、貫之が自分は誓いを破ったら命はないと神に誓った、だから世の常の偽りは決してやらぬから安心したまえと答えた

躬恒がもとより
草も木も吹けば枯れ行く秋風に咲きのみまさるもの思ひの花
返し
ことしげき心より咲くもの思ひの花の杖をば面杖(つらづえ)につく
●近頃憂鬱で叶わないよと躬恒がこぼしたのに対して、貫之がそんなに憂鬱ならその「もの思ひの花の枝」で杖でも作って頬杖突いたらどうだとひやかしている

これは、この時代特有なのか?それとも二人の仲がよすぎるのか???笑 ものすごく穏やかな(且つ親密な)二人の姿が思い浮かべられます。無二の親友とはこういうのをいうのでしょうか。ちなみにすべて『貫之集』に載っているようです。

後、宇多天皇について、私は道真が大好きな天皇って思っていたのですが、それはもちろん、文芸がお好きだったのですね。出家して仏道修行に励むかと思えば、酒飲み大会(大酒のみを集めて誰が一番お酒をたくさん飲めるか競わせた)開いたりしてて・・・謎だ。でも、後鳥羽さんもそうだけど、こういう時代のリーダーが歌合をさかんに催してくれることで和歌集というのができるし、新しい歌の世界が作られていくものなんだなぁとも思いました。半ば仕事でもないと(無理やりに自分の心を高めないと)、膨大な和歌の整理や多くの詠作なんてできないだろうなぁ。

・・・が、実は私は貫之の歌よりも貫之の従兄・友則の歌が好きだったりします。たとえば・・・

久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
きみならで誰にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる
色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける
雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし

などなど・・・。

貫之の従兄というのは知っていましたが、二十歳も年上だとは知りませんでした。古今集編纂中に没したとか。

と、途中までしか読んでいないので、こんなところです。続きは・・・書けるといいな。笑
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藤原定家読了

もう、本が手元にないので詳しく書けないのですが、『藤原定家』読了しました。途中まで後鳥羽院と仲がよかった(というか、まぁ合わせていたんでしょうけど)のに、承久二年(1220)二月の内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられるなんて・・・。しかも、その後、承久の乱で隠岐に流された院と最後まで和解しなかったなんて・・・。

この本を読んでいると、院は元々破天荒というか、ものすごい偉大なのですが、すごすぎて付いて行き難い感じがしました。いろいろな方面への関心であったり集中力が半端ではない。すぐれた御方です。ただ、怒りに触れるとこれまた非常に恐ろしい・・・。ちなみに後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子。四の宮です(四の宮という響きになぜか心がぐっと引かれる私。笑)。本当は、安徳天皇と同様平家にしたがって西国に下るはずでしたが、乳母が考え直したことで命拾いしました。しかも、安徳天皇の次の天皇に後白河院が指名したのです。思えば、この辺からして超強運な運勢なのかも・・・。院が、承久の乱であっさり負けてしまったのは何故???まだまだこの時代については無知なのでさっぱりです。ちなみに、院は定家より18歳年下っていうのがまたすごい!!と思ってしまいました。

当時は、百首歌がものすごく流行っていて、定家も何度も詠進しています。この百という数が後に百人一首につながっていったのかなぁなんて安易に想像してしまうほどに。

あ。後、俊成が亡くなる場面は涙ものでした。定家は何度も俊成にピンチを助けてもらっています。晩年に生まれた定家を掌中の玉といわんばかりに可愛がっている俊成。その俊成は定家に、息子・為家が官位を望んでも、自分の役職を手放してはいけないよ・・・と言い残していたらしいけど、結局定家も息子が可愛かったのか、中将を辞して、為家に近衛府の職を譲っています。もし、俊成が同じ立場でもきっと定家に譲ったと思うよ~なんて思っちゃいました。

後、九条(後京極)良経がとても気になる存在です。この人は思いもよらない題材をテーマに詠歌に挑戦していて(定家も誘って読ませたりしている)、びっくりしました。本当に、当時は天皇も公卿も歌作りがさかんに行われていたんだなぁと思いました。平安中期も詠歌はしてただろうけど、比じゃない。秀歌も多いです。ただ、本歌取りの歌が多いので、いきなり読んでも中々意味を理解するのは難しいなぁと思ってしまうのでした。

俊成パパと定家卿

『源氏物語』夕顔の巻きまで読み終えました。・・・夕顔の巻は、まるで2時間のサスペンスドラマでも見るような心地でした。結末は知っているけど・・・というか、六条御息所なんてほとんど出てこない。この段階では例のもののけが誰かまではよく分からないんですね。光源氏が六条のほうでも好ましく思っていないだろうと勝手に想像しているだけで・・・。

私が一番びっくりしたのは、源氏の従者である惟光までが色好みとして書かれていたことで・・・。今までのイメージとして、源氏をたしなめるような存在だと思っていましたが、大きな勘違いでした。だから原文を読まなくては・・・(^_^;)まぁ、惟光にも共感されなければなかなか夕顔に通うこともできませんよね。夕顔の巻きにちょこちょこ空蝉や軒端の荻との文のやりとりが出てきて、それにも興をそそられました。意外にも、和歌だと大胆な空蝉。軒端の荻は結婚してるし。これはまた続きを読むのが楽しみになりました。

夕顔の巻は帚木や空蝉などのだらだらした感じの文章が一転、あっというまにドラマは進み、光源氏も病に倒れ、ここまでの話だったら光源氏の人生も人と変わらないなという感じ。でも、おそらくこの帚木から夕顔は後々付け加えられたであろう巻なので、これからが本当の源氏ストーリーというわけです。続きを読むのが楽しみになっております。

ところで、源氏つながりというわけではないですが、只今藤原定家(久保田淳)を読んでおります。浪漫的な定家の性格素敵です☆彡

藤原定家は俊成が四十九歳の時の子で、俊成は当時まだ顕広と名乗っており、正四位下左京大夫でした。母は若狭守藤原親忠の女で美福門院加賀といい、鳥羽院の妃、近衛天皇の母后美福門院の女房です。

俊成が顕広と名乗っていたのは、幼いころ父・俊忠を失って、九条民部卿・藤原顕頼(葉室流)の猶子となっていたからでしょう。

定家の母は俊成と結婚する以前、長門守・藤原為経の妻として隆信を生んでいます。隆信は似絵の大家として著名です。その隆信は定家の異父兄ということになります。しかし、為経は隆信が生まれた翌年出家し、寂超と号します。その後、加賀は俊成と結ばれますが、俊成と加賀が結婚するまでには大きな障害がありました。俊成はそれ以前、この為経の姉妹(為忠女)を妻としており、加賀は義理の兄弟の配偶者だったのです。つまり、加賀の前夫の姉妹が俊成の妻という非常に近い親類関係だったわけです。
keizu.jpg


『新古今和歌集』恋・三には、二人の歌の贈答が残されています。

女につかはしける
よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ 皇太后宮大夫俊成

返し
たのめおかむ たださばかりを 契りにて うき世の中の 夢になしてよ 藤原定家朝臣母

俊成は加賀との間に、成家・定家・八条院三条・高松院大納言・上西門院五条・八条院中納言・前斎院大納言・承明門院中納言と多くの子女を設けています。俊成は『長秋草』で妻のことを「年ごろの友、子供の母」と呼んでいます。

この定家の母が亡くなったのは建久四(一一九三)年二月十三日のことで、当時定家は三十二歳。友人や主人(良経)から弔問の歌が贈られ、悲しみのうちに季節が巡り初秋になります。

七月九日、台風めいた風が京の都に吹き、雨が降りました。この頃、父と居を別にしていた定家は、俊成の許を訪ねています。この時詠まれた歌が俊成の『長秋草』に、

七月九日、秋風荒く吹き、雨そそきける日、左少将まうできて帰るとて、書きおける
たまゆらの 露も涙も とどまらず なき人恋ふる 宿の秋風

返し
秋になり 風のすずしく 変るにも 涙の露ぞ しのに散りける

として収められています。同じ贈答歌が、定家の『拾遺愚草』にも収められていますが、その詞書は「秋、野分せし日、五条へまかりて、帰るとて」というもので、定家はこの秋風を野分と捉えているのです。この詞書の違いから、久保田氏は定家が『源氏物語』の二、三の場面を想起していたに違いないと考えられています。

その一つは「桐壺」。桐壺更衣を失ったのち悲しみにくれている桐壺帝が、更衣の母を弔う使いとして、靫負命婦を使わせる場面。野分の後、桐壺帝は命婦を更衣の母の許へ遣わしました。

二つ目は「野分」。父とは住まいを異にしている夕霧が、六条院へ見舞いにいき、美しき義母・紫の上を垣間見る場面。

三つ目は、「御法(みのり)」。紫の上が亡くなり、夕霧があの野分の巻きのことを思い起こしている場面です。

野分めいた風が京の街を吹き荒れた日、妻を失った老父を見舞おうと思い立ち、家を出た定家が、そのときすでに自らの姿を『源氏物語』の夕霧とさかねてあわせていたというのです。もちろん俊成は光源氏です。氏は、虚構である『源氏物語』の叙述が、この悲しい体験に遭遇したことによって人生の真実として了解され、定家はおのずとそのような行動をとらされたと考えられています。

定家が無意識のうちに自分を夕霧に重ねたかどうかはわかりませんが、自分の生活の一部に溶け込むほど愛読していた『源氏物語』を享受してくれたのは俊成であり、源氏供養などもした母でした。定家が愛してやまなかった母に、紫の上を重ねたとしても不思議はないように思われます。定家の浪漫的な性格ゆえ・・・とも考えられますが。(笑)私は定家のそういうところが結構好きみたいです。

定家についてはまだまだ面白いことがありますが、今日はこのへんにて。

京極為兼

さてさて、あれからなぜか気になる京極為兼さんの本をもう一つ借りてきました。土岐善麿先生がお書きになった『京極為兼』。私のような和歌初学者にも分かりやすく書かれておりました。・・・といいつつ、和歌のほうは詳しく読めておりません(>_<)とりあえず、最後の「その業績と生涯」という部分から読んでみました。

為兼さんは鎌倉幕府政治の後期、持明院統(北朝)の実力者として活躍した政治家です。政治家であり、歌人ともいえます。大覚寺統(南朝)や鎌倉幕府を相手に、三者間の調整をはかる立場にありました。歌人としては、当時沈滞した歌壇に立ち向かい、革新的な機運を促しました。その歌論に、『為兼卿和哥抄』一巻があり、生前一万首以上も詠んだと伝わっています。持明院統につらなる人たちを中心に京極派の歌風を推進し、伏見院の勅撰である玉葉和歌集を編纂しました。

以前、為兼の父・為教と伯父・二条為氏(為教の兄)がすこぶる仲が悪かったと書きました。それは、それぞれの家の歌風が相容れなかったこともありますが、単に歌だけでなく、政治的な対立もあったろうと思われます。すなわち、為氏の子・為世は大覚寺統の師範であり、為兼は持明院統の師範であったからです。

大覚寺統の治世となれば、当然為世が歌壇的勢力を、逆に持明院統の治世となれば、為兼がそれを得るという情勢だったのです。つまり、大覚寺統の後宇多院の院政になると、為世が『新後撰集』を、持明院統の伏見院の院政になると、為兼が『玉葉集』を、さらに後宇多院の院政下に、ふたたび為世が『続千載集』を撰進するというありさまだったのです。

為教は、兄・為氏にけむたがられ、一族の歌合せにも招かれないような不仲であり、為氏が『続拾遺集』を作った際、為教一族の入集歌が少ないことが原因で発病し、訴状を出してから四ヵ月後に二条派への遺恨を抱いたまま死にいたったのでした。
(あ~。なんか誠信のような話だな・・・。)

今日はここまで。為兼の話は後に続く←続けられたら・・・。

口遊

『口遊』は、平安中期の文人・源為憲が、藤原為光の長男で当時七歳であった誠信(さねのぶ)のために編纂したとされる。この本は、宮中に出仕することが見込まれた年少者のための学習書で、「くゆう」「くちずさみ」などと読み、天文・地理・書籍・官職・芸能・飲食等を十九部門に分け、語句に節をつけて暗唱する構成となっている。『権記』寛弘八年十一月二十日条には、行成第に子息・良経が来訪して、『和名類聚抄』四帖・『口遊』一巻・行成臨故兼明皇子書一巻を請うた記事が見え(おそらく自分の子のため)、貴族子弟の教学の書として重宝されていた様子が窺える。

以下、『口遊』より抜粋(一部、表記を改めた)

■夜の途中に死人に逢える哥
桑樹の下で三返誦す
(たまやかた よみちわれゆく)
 多未也加多 与美千和礼由久
         (夜道)(我行)

(おほちたら ちたらまちたら)
 於保千多良 千多良末千多良

(こかねちりちり)
 古加禰千利々々

・モモ語訳
魂や。どこにいるの? 私は夜道を行く
大路だろうか 路だろうか町だろうか
小鐘がチリチリ鳴っている


■鵺(ぬえ)鳴く時の哥
(よみつとり わがかきもとに)
 与美津止利 和加々支毛止爾
(黄泉つ鳥)  (我)(垣下)

(なきつとり ひとみなききつ)
 奈支徒止利 比止美奈支々津
(鳴)      (人皆)(聞)

(ゆくたまもあらじ)
 由久多末毛安良志
(行)(魂)

・モモ語訳
黄泉に住むという鳥が 和が家の垣下に
鳴いている鳥 人は皆聞いてしまった
(黄泉の国へ)行ってしまう魂もないのに

・鵺…現在のとらつぐみ。伝説上のぬえは古来怪鳥の一種と思われ、夜その鳴声を聞くと病気になる不吉な鳥とされた。源三位頼政が、宮中で退治したとされるぬえは、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の如くで、その鳴声はぬえとりの如くであったと伝えられる「平家物語」(『和漢古典動物考』寺山宏)。


■馬の腹痛む時の哥
馬の耳に三度誦す

(しらなみを つくしのきみの)
 志良奈美遠 徒久志乃支美乃
(白波)     (筑紫) (君)

(みつかどに つなぐわがむま)
 美徒加度爾 徒那久和加牟末
              (我馬)

(たれかがとらむ)
 多礼加々止良牟

・モモ語訳
白波を 筑紫(今の福岡県)にいる君の
三門に つないでいる我馬
誰かが盗るのだろう

今回、モモ語訳かなり間違ってると思います(^_^;)申し訳ないです・・・。『口遊』は前々から紹介したいと思っていた本の一つで、これは大学時代にメモ書きした少し怪しい資料なのですが(笑)、当時の貴族子弟のお子様方が何を学んでいたのかということが分かると共に、私たちが今見ても勉強できる内容になっております。例えば門の名前とか音楽の音階とか(当時は音符がないので漢字表記です)。九九なんかもあって、昔も七歳くらいで九九を暗唱したのかと思うと、何やら親近感がわくではありませんか?!(え?私だけ?)

そんな『口遊』で一番おススメなのが、口遊注解という本です。値段高いですが、翻刻に注釈、陰影までついてかなり読みやすくなってます☆彡・・・実は自分も一つ欲しいなと思っている本なんだよね。苦笑

元号・時間・方角

 元号の問題については、不明瞭な点も多く、現代に残されている資料から当時どう読まれていたかを判断するのは非常に難しい問題であるが、平安時代の「寛平」という年号について考察してみたいと思う。

 現在、「寛平」という年号は「かんぴょう」とルビをふられるのが普通になっており、『歴代天皇・年号事典』にも、「かんぴょう」と書かれ、補足のように「かんぺい」とも読むと記されている。しかし、「平」という字の「ヒョウ」という発音は、呉音である。平安時代の初め、現在で言うところの大学や大学院に当る大学寮では、国の法律で奈良時代まで使われていた呉音を漢音に改めて使うことが決められた。つまり、平安時代に考えられたこの元号を「かんぴょう」と読んでいた人間はおらず、皆「かんぺい(もしくはかんへいかもしれないが)」と読んでいたことになる。その証拠に、様々な書物を引用しその読み方を考証している山田孝雄氏の『年号読方考証稿』に中では、「かんぴょう」と書かれた書物を見出すことはできない。さらに、時代は下るがポルトガル人のロドリゲスが聞きとった音も、”Quampei”と記されており、他国の人間の耳にも「かんぺい」と聞こえたようである。いったいいつの時代から「かんぴょう」と読むことになったか分からないが、現在の読み方に問題があることは否めないであろう。

 さて、改元を行う理由であるが、記録に見えるものはほぼ先ほど紹介した『歴代天皇・年号事典』にまとめられている。また、平安時代に関して言えば、男性貴族の日記にも当然改元のことが見られるのである。例えば、平安中期の最も有名な貴族である藤原道長の日記『御堂関白記』にもその記録が見られ、長保六年(寛弘一年)七月二十日の条には「其後下改元詔書、改元為寛弘、有諸卿定申、寛仁宜者、而左大弁(忠輔)申云、仁字是諱字也、為之如何」と見えるので当初は「寛仁」と改元する予定であったのが、忠輔が一条天皇の諱「懐仁(やすひと)」の「仁」という文字が元号に入るのを難じたために「寛弘」になったようである。ちなみに、この「寛仁」という年号は、一条天皇の二代後、一条の息子である後一条天皇の御世において使用されている。

 さて、平安時代に時間を知らせる方法として、お寺の鐘はもちろん、宮中では時を知らせる人がいたようである。清少納言の『枕草子』では「時奏する、いみじうをかし。いみじう寒き夜中ばかりなど、ごほごほとごほめき、沓すり來て、弦うち鳴らしてなん、「何のなにがし、時丑三つ、子四つ」など、はるかなる聲にいひて、時の杭さす音など、いみじうをかし。「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ。すべて、なにもなにも、ただ四つのみぞ、杭にはさしける」(『枕草子』二九〇段)と書かれており、鳴弦と杭で時間を知らせていたようである。『延喜式』によると、鼓で時を報じるのに、子丑は各九つ、丑未には八つ、寅申には七つ、卯酉には六つ、辰戌には五つ、巳亥には四つ打つとあり、清少納言が「「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ」と言っているのは、この鼓によって宮中の外に時間が知らされ、民間ではその鼓の音を頼りに、時間を知る基準に使っていたために俗称が発生したものと思われる。

 男性貴族が天皇の物忌みで一緒に籠ることになれば、枕草子で藤原行成が「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなん」(『枕草子』一三六段)と言っているように、丑の刻までに宮中に行っていないと難じられたようである。各個人に時計がないにしても遅刻すれば咎められることもあり、毎日の日記にしっかりと遅刻者が記録されているところから見ても、意外に時間にうるさい人がいたようである。

 さて、貴族たちの庭造りについて詳細な意見が陳べられている本に藤原頼通の養子になった橘俊綱が著したとされる『作庭記』がある。この本は、庭園を造る場合の指南書である。土木工事に関わることより、有職故実や陰陽道に則って禁忌とすべき点などが陳べられている。特に、樹事の項目では四神相応の思想が如実に見られるのであり、東に鑓水がなければ柳九本を植えて青龍の代わりとし、西に大道がなければ楸七本を植えて白虎の代わりとし、南に池がなければ桂九本を植えて朱雀の代わりとし、北に岡がなければ楡(檜と解す説もあり)を三本植えて玄武の代わりとするとされる。現在の京都御所は、もとは里内裏(正式の内裏が火災等で使用できない際の臨時の内裏)の一つで、土御門東洞院殿と言い、元弘元年(一三三一)、北朝の光厳天皇が最初に使用したものである。現在は幾度かの火災の後建て直された御所であるので、何を基準に建て直されたか知りえないが、もともとはこういった『作庭記』など貴族の屋敷を造る場合の有職故実に則って建てられた邸だったのではないかと考えられるのである。

■参考文献
『歴代天皇・年号事典』 米田雄介編
『年号読方考証稿』 山田孝雄
『大日本古記録 御堂関白記』
『枕草子 日本文学大系』 池田亀鑑他
『「作庭記」の世界 -平安朝の庭園美-』 森蘊

日本語史における時代区分について

 同一の事実を対象としながら様々の「国語の歴史」がある所以は、日本語が日本において話されてきたという事実に対して、研究者が、現在の立場から見たそれぞれの解釈を投入して時代区分を行うからである。それは、国語の「歴史」そのものが、一つの仮説的存在でしかないということを示している。さらに、時代区分を施すべき国語の歴史について、資料そのものがあまりに不足している。というのも、現在、我々が目にすることの出来る資料は、各時代の政治的中心地の言語資料だけだからである。つまり、我々の考える時代区分とは、現存資料の制限から、自然、ある一部の地域でのみ使用されていた日本語の「歴史」とならざるをえないのである。

 本来、過去から未来に向かって、常に流動し続ける時間を、はっきりと区分するというのは無理な話である。その無理をおかしてまで、時代区分を試みるのは、「過去から現在にいたる日本語の姿を、単なる無数の変化のつみかさなりとは見ずに、そこに、はっきりと一つの変遷を考えようとするから」だと阪倉篤義氏は言う。

 人間は、現在自覚への要求のために、過去にたいして意味づけを行おうとする。歴史を特定の立場から統一的に解釈することで、最も解りやすく示したものが、時代区分である。歴史的変遷を考える上で、その時代区分方はいくつか存在する。例えば、「古代」「中世」「近代」という現在までの歴史を三つに区分した三分法で、生・死・復活という図式を適用した直感的区分や、マルクスの社会経済史的観点から、「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義」という社会体制の発展形式に即した科学的区分などがある。これらの時代区分が必ずしも国語の「歴史」に当てはまるのではないが、イメージがしやすいという点では、ひどく便利なものである。というのも、言葉というものは、政治や経済の状況、社会の情勢などにより、急激に変化するということがしばしば見られる。それに応じて、文学や文化というものに影響が現れ、その傾向が全く変化してしまうということもありえるからだ。政治史的時代区分があながち間違いとは言い切れない理由である。ただし、これは、政治的中心地にのみにしか言えないことではあるのだが。

 ここで、実際にどのような時代区分があるのかを見ていきたい。まず、橋本進吉氏は、国語の音韻の変化に着目して、奈良朝の終わりまでを第一期、平安朝の初から室町時代の終までを第二期、江戸時代以降を第三期とされた。この、第一期、第二期、第三期の間には、その言語にかなり著しい相違があり、その間に時期を画するのは至当と考えられている。平安朝の院政時代以降と、それより前との間にも相違は見られるが、それほど著しい相違ではないと判断された。さらに、鎌倉時代の言語と室町時代の言語にかなりの差異が見られるが、各時期の口語資料不足のため、どこに境界を引くべきか定まらないとされている。

 次に、山田孝雄氏の時代区分方を見ることにする。山田氏はまず、「古代」と「近世」の二つに大きくわけ、「吉野時代を古代の終、近世の始」とされた。さらに、「古代」を、上代(文献のない時代)、奈良時代(奈良時代及びその前の文献に見えるものを総括)、平安時代(延暦遷都から後三条天皇)、鎌倉時代(院生以来を含)、「近代」を、室町時代(信長・秀吉のころまで含)、江戸時代、現代とわけられた。南北時代あたりに画される溝は大変深いもので、これに比べると、奈良・平安両朝の間の区画は、より浅いものになる。室町時代ごろを境として、日本語が顕著な変貌をとげたが、奈良時代から平安時代にかけての変貌が、これと合い並ぶほどの意義をもつものであるのか、また別に、大きく古代語としてくくるべきものなのかは、国語史の流れを全体としてどう把握するかによるとされた。

 さらに、安藤正次氏の時代区分方を見ると、国語の成立期、国語の初代と大化の改新(大化改新頃まで)、集中・偏在の時代(奈良朝から平安朝)、分散・均等の時代(院政期から室町時代)、二元・対立の時代(江戸時代)、一元・統一の時代(明治以後)とされている。安藤氏は、国語変改勢力の最も盛んであった時期として、㈠大化の改新から奈良朝の初期に至る時代、㈡鎌倉時代、㈢明治維新以後の時代の三つを考えられている。それは、文化のありかたや、社会構造の変移に基づく、文語と口語、あるいは方言の対立統合などに着目したものである。
 どの区分方も、鎌倉時代と室町時代の間にかなりの変化があったことが指摘されている。これは、確かに言語に変化があったことも事実であるが、もう一つの理由として、平安時代以前に比べて現存資料の数が圧倒的に増えたとからと考えることができるのである。

 では、研究者がそれぞれの解釈を投入して、時代区分を行うとはどういうことなのだろう。それは、日本語の何を基準として時代区分を行うかということである。現在、日本語の時代区分は、「音韻」「文字」「語彙」「文法」に分けて考える論がある。

 まず、金田一春彦氏は、「音韻(アクセント)」で時代区分を試みられた。アクセントが変化する場合には、多くの語が一度に同じ方向に変化し、短期間にその変化が終ると考えられる事から、アクセントによる時代区分が可能とされた。その中で、京都語のアクセントとおぼしいものを取り上げ、平安末期以後、京都語のアクセントには、大きな転機が二度あり、ひとつは南北朝時代、もうひとつは江戸後期とされた。語義の区別に役立つメキシコ型アクセントから、一語のまとまりを示すギリシャ型アクセントへの脱皮を遂げてきたのだという。これは、どういうことかというと、語の意義の区別を表すという方は、段々音韻の方に譲り、一語一語にまとまりを与えるという機能、それを発揮する方向に進んできたものといえる。

 次に、乾義彦氏の「文字」による時代区分方だ。乾氏はまず、日本語の文字史にとって、もっとも大きな出来事が漢字との接触であった事に触れ、日本語書記の歴史を画するに、二つの大きな画期が考えられるとした。一つは仮名の成立である。そして、もうひとつは、比較的はっきりと分かれていた平仮名、片仮名と漢字が交用された、所謂和漢混交文の成立である。つまり、古代は漢字専用の時代、近代は漢字仮名交じりの時代と一応の規定をされた。さらに、この二つの基準によって生じるはざまを、仮名と漢字がそれぞれの場合によって使い分けられていた時代とし、移行期としての性格を持つ中世とされた。

 続いて、前田富祺氏による「語彙」での時代区分方である。前田氏は、語形変化、語彙体系の変遷、語種の観点から三区分方を採用された。文学史や政治史とほぼ対応する、古代(前期・後期)、中世(前期・後期)、近代(前期《上方語》《江戸語》、後期《近代語》《現代語》)に区分する。ただし、中世については、古代でもあり近代にもつながると考えてその間で切るか、古代に入れるか、古代でも近代でもない時代として独立させるかということであったが、変動の大きい時代は、それを一つの特徴と認めて一時代と考えたほうが良いという立場をとられた。ただし、現存資料の制約から考えると、このような特徴はあまりにも局部的なものでしかない。語彙史全体の史的方向性が見極めにくいというのが、かえって語彙史の特徴であると考えられる。

 最後に、森重敏氏による「文法」での時代区分方である。森重氏は、その時代区分を三つに区分され、第一の時代(古代)を、推古天皇の頃から南北朝末期までとし、第二の時代(中世)を、室町期初頭から徳川期明和年間までとし、第三の時代(近代)を、徳川期安永年間から現在までとされた。古代の上限を推古天皇の頃としたのは、国語が文字に定着した現在遡りうる限りのところとしたためである。また、古代の頂点的代表として、平安中期の三代集以下の和歌、源氏物語を中心とする物語に見られる係り結びの成熟と多様を指摘された。これらの特徴としては、主としての格が明瞭にされないこと(=主格の省略)、句と句の句格的関係が掴みにくいことなどがあげられる。さらに、第二の頂点ともいえる軍記物語、道行文をもって、古代的掛詞の成熟した形であると見ることができるとされた。中世を、室町初頭をもって始める理由は、謡曲と連歌とが、ここから実質的に興ったからである。尤も、これらの事実上は、南北末期から成立していたのであるから、南北朝末期を古代から中世への過度期と見てよい。さらに、所謂お伽草子の推定期に遡りうる上限が室町初期にあるからである。この時代の文法的特徴は、文における断続の関係と論理的関係とがいずれも不整に乱れているところにある。格の論理的関係のねじれた曲流文は、謡曲の詞章において成立し、近松の浄瑠璃によって成熟、完成を見、西鶴の浮世草子にも独自の文体として成熟した。これらは、断続の関係と理論的関係や、係り結びの関係の甚だしい乱れを見せる。西鶴のこのような破格の基盤は、談林の俳諧であった。室町期の連歌以来の俳諧自体が、断続の明瞭を欠くものであり、芭蕉の連句俳諧は、その正統的な成熟であった。近松西鶴芭蕉の元禄期をもって、文法史では、中世の代表的頂点とする。森重氏は、これらの破格は、文法史的に見て、中世という時代の常格として解釈すべきだと指摘される。また、この時代の乱れは、口語的なものから文語的なものに浸潤したことに基盤をもつと考えられる。さらに、近代の代表的頂点は、文語的な擬古的性格正調と、口頭語的な統一の運動であったとされた。

 このように、研究者の立場によって様々な時代区分方が存在する。私は、人間が日本語を時代区分するのは、より日本語への理解を深めようとするために行うものであるから、多種多様な時代区分が存在して当然だと思う。阪倉篤義氏が次のように書かれていたのが、非常に印象に残った。

「一は奈良時代人、一は平安時代人ということで、かれらの言語(音韻・文法・語彙など)が、奈良時代語と平安時代語とにきっぱりわかれていた、などと考えることは、できるはずのものではない」
という部分である。常に時間は流れているから、言葉は必ず変化していくものである。あるときは音韻が変化し、またあるときは文法が変化し、またあるときは語彙が変化した。その変化が同時に興るときもあれば、ある一部分でのみ興る場合もあったはずである。しかし、ある一部分が変化したからといって、全く意味が通じない別の言語というのはおかしい。奈良時代の人も、平安時代の人も同じ日本語を話していたのだから、少しの差異が生じても意味は通じたのではないか。そう考えると、時代を区分するということ自体がひどく無意味なことのように思えてきた。しかしながら、日本語の変遷を考えるということは、現在、我々が使っている日本語というものが、どのようにして今の状態に至ったのかを知る上で、非常に重要な意味を持っているので、これからも日本語の変遷について研究していかなければならないと思うのである。


参考文献
●阪倉篤義 「国語史の時代区分」(『講座国語史 一 国語史総論』松村明編 大修館書店 昭和五二年)
●乾善彦 「語彙史の時代区分・文字史の時代区分」(『国語語彙史の研究 二〇』国語語彙史研究会 和泉書院 二〇〇一年)
●金田一春彦 「古代アクセントから近代アクセントへ」(『国語学』二二 一九五五年)
●森重敏 「文法史の時代区分」(『国語学』二二 一九五五年)

清少納言と枕草子について

枕草子は、日本文学の中で、もっとも異本が多く、さらに異本間の異動のはなはだしい作品の一つに数えられる。その原因は、作者自身に初稿と再稿があったこと、後人の書加があったことなどによると考えられている。枕草子がいつ成立したか……それを明記する文献はない。はっきりとした成立年代は存在しないのかもしれない。

枕草子の作者は清少納言といわれている。それは内部徴証からほぼ間違いないらしい。清女は、清原元輔のむすめとして生まれた。清少納言というのは、宮仕えに出てからの呼び名であって、「清」は清原氏の意である。「少納言」は父、または兄の官名に酔よったものと考えられるが、詳しいことは分かっていない。清原氏は代々学問の家で、父元輔は歌人として名があり、梨壺の五人の一人として万葉集に古点をふる業績を残し、後撰集の撰にもあずかった学者である。曽祖父の深養父も、古今集や後撰集に歌を選ばれている。清女の学問的教養は、こうした家庭や家系において植えつけられたものである。父の元輔が亡くなってから二三年後、清女は中宮定子に出仕するようになった。その年代については種々の説があるが、正暦四年の冬と考えるのが妥当であるらしい。中宮は一七歳、清女はそれより凡そ十歳ばかり年長であったらしい。その後定子が崩御された長保二年(一〇〇〇)まで、十年に満たない年月こそ、清少納言の生涯にとって、最も幸福な、生きがいのある時期であったと考えられる。

清少納言が中宮定子に出仕しはじめたころは、定子の父である中の関白藤原道隆が、政権を掌握していた時代であった。道隆は関白になると、長女定子を一条天皇の女御に奉り、ついで次女原子を東宮の妃としてさし上げた。その後、嫡子伊周が内大臣となり中の関白家の栄華は、ゆくところを知らぬ有様であった。

しかし、道隆は病を得、薨去してしまう。この道隆の死によって中の関白家の運命は忽ち暗雲に閉ざされるようになった。道隆の関白職は当然伊周に継がれるものと考えられていたが、以外にも弟の道兼に与えられ、道兼が急逝すると、さらにその弟の左大臣道長に譲られてしまった。これには一条天皇の母であり、道隆、道兼の妹、道長の姉にあたる東三条院藤原詮子と道長による策略があったようだ。伊周は才藝優れた人ではあったが、政治的な手腕、人物の大きさなどにおいては、到底叔父道長の敵ではなかった。やがて伊周は道長一派策謀のため、弟の隆家と共に捕らえられて、共に左遷流罪の身となった。

この事件によって、中宮は自ら髪をおろされ、まことに寂しい月日を送る身となられた。さらに、道長長女彰子が、わずか一二歳で入内し、翌年、定子は皇后に、彰子はこれと全く同等の地位である中宮になられたのである。こうして、この世の一切の幸福とよりどころを断たれた定子は、わずか二四歳の短いご生涯を終えられた。清女が宮仕えの生活をした十年足らずの年月は、このように、主家の運命が栄枯盛衰の渦巻くさなかにあったのだ。

しかし、枕草子はそういった中の関白家の零落振りを描いているのではない。寧ろ、宮中での華やかな出来事を中心に描いている。

枕草子には、現在四系統の諸本が存在しているといわれている。三巻本、因能本、前田本、堺本である。驚いたことに、この四つの系統の本は、巻頭の「春はあけぼの」からして本文がみな異なっている。その中で最も重視されているのが「三巻本」だ。その理由は、枕草子四系統本のうち、伝能因所持本とともに、内容量において完本であるということ、奥書により鎌倉以後の伝来の明瞭なこと、古来の枕草子の引用に当たって、この系統本が使用されているらしいことなどである。

それぞれの本の系統について簡単に述べる。まず、伝能因所持本系統。この系統本の古写本の下巻末に、「因能がもっていたと称する本を書き写したのがこの本だ」という奥書が見えることからこの名称がついた。この系統に関する主要本としては、室町時代書写の三条西家旧蔵本、富岡家旧蔵本、高野辰之旧蔵本の三点が知られている。

次に、三巻本系統。現在諸伝本の多くが三冊であるところから三冊本とよばれる。また、安貞本、安貞二年奥書本ともよばれる。その名は、現存伝本に安貞二年三月 耄久愚翁 在判という奥書があることによる。耄久愚翁と称する男性は藤原定家ではないかと言われている。定家は、鎌倉時代に生きた貴族で、殊に和歌を得意としていたが、源氏物語や伊勢物語の写本を後世に多く残し、現代、古典の多くにその本文が採用されている。さらに、現存の三巻本系統諸本は、池田亀鑑によって、第一類(甲類)・第二類(乙類)とに分けられた。第一類は上・中・下全三冊で、「春はあけぼの」以下「あぢきなきもの」までの本文がなく、「ここちよげなるもの」から上巻がはじまるもの。第二類は、全三冊で中と下との始まる章段も同じであるが、上巻は、「春はあけぼの」からはじまる。中学で習う枕草子は、三巻本系統諸本で、さらに乙類の伝本である。 甲類の主要写本の中には陽明文庫蔵本、宮内庁書陵部図書寮蔵本、高松宮家蔵本などがあり、また乙類の主要写本には、弥富破摩雄旧蔵本、刈谷図書館蔵本、伊達家旧蔵本などが挙げられる。

そして、前田家本。前田家本は一般に前田本とも呼ばれるが、この系統に属する本は、他に見当たらないようだ。さらに、前田家本には、三巻本系統本は直接関係していないものと考えられている。それは、「伝能因本と堺本とを底本として集成して作られた後人による改修本である。」という仮説がまず動かない、確かなものだと考えられているからだ。

最後に、堺本。奥書に(元亀元年一五六〇)十一月 日 宮内卿清原朝臣として、堺の文字が見られることによる。この系統の本は、雑纂的なのと異なり、類纂・類聚的に、天地自然の現象または物事に関するもの、人間の日常生活に関係したこと、また四季の風物・情趣についてしるしたものなどとなっている。堺本系統本の主要写本には高野辰之旧蔵本、旧台北帝国大学蔵本、鈴鹿三七旧蔵本、後光厳院宸翰本、京都大学蔵本などがある。

枕草子は、悲痛な歴史の現実の中に身をもって生きた作者が、空想や虚構によって書いたものではなく現実の記録だ。だが、清女は決して暗さや、愚痴や、絶望や、あるいは感傷などを残す人ではなかった。清女の明るさはこの草子を読む人にも元気を分けてくれるような気がしてならない。

●参考文献
『枕草子研究』岸上慎二 新生社
『清少納言枕冊子研究』田中重太郎 笠間書院
『枕草子必携』 岸上慎二 学燈社

兼家さまへ

蜻蛉日記の中に、蜻蛉日記作者が夫兼家に書いて宛てた長歌が載っています。私が初めてこれを見たときは驚きで声も出ないほどでした。内容もさることながら、上手いのです。(文字使いや手運びが。)

さすがに兼家もこれを貰ってしまっては、少しは蜻蛉日記作者のことを思いなおす切欠になったのではないかと思います。・・・で、実際手紙を送ったのではなくて、兼家が久々に家に寄ったときにさりげな~く見つけさせるという手法。笑

今やったらかなり嫌な女というイメージかもしれませんけど、当時としては直接言うのも癪というかはしたないというか、そういう雰囲気があったかもしれないですね。ちなみに道綱君も登場。かなり可愛らしい事になっております。

あ。そうそう。兼家さんも一応長歌でお返事をしております…んが、やはり蜻蛉日記作者が数段上手いです。もし興味がありましたら、一度蜻蛉日記を読んでみてください。兼家の強引さ、モモは意外に好感が持てました。これはおそらく作者が兼家をなんだかんだ言いつつ好きだったからなのだと思います。

今日は、蜻蛉日記作者の長歌を載せます。原文とモモ語訳(日本古典文学全集をかなり参照。笑)を付けておきます。兼家さん一家に興味を持っていただければと思います。(しつこいですが、モモはこの夫婦意外に好きなのですよ。苦笑)


思へただ むかしもいまも わが心 のどけからでや 果てぬべき 見そめし秋は 言の葉の 薄き色にや うつろふと 嘆きのしたに 嘆きかれき 冬は雲居に 別れゆく 人を惜しむと 初時雨 曇りもあへず 降りそほち 心細くは ありしかど 君には霜の 忘るなと 言ひおきつとか 聞きしかば さりともと思ふ ほどもなく とみにはるけき わたりにて 白雲ばかり ありしかば 心空にて 経しほどに 霧もたなびき 絶えにけり また古里に 雁の 帰るつらにやと 思ひつつ 経(ふ)れどかひなし かくしつつ わが身空しき 蝉の羽の いましも人の 薄からず 涙の川の はやくより かくあさましき うらゆゑに ながるることも 絶えねども いかなる罪か ゆきもはなれず かくてのみ 人のうき瀬に ただよひて つらき心は みづの泡の 消えば消えなむと 思へども 悲しきことは みちのくの 躑躅の岡の くまつづら くるほどをだに 待たでやは 宿世(すくせ)絶ゆべき 阿武隈(あぶくま)の あひ見てだにと 思ひつつ 嘆く涙の 衣手に かからぬ世にも 経(ふ)べき身を なぞやと思へど あふはかり かけはなれては しかすがに 恋しかるべき 唐衣 うちきて人の うらもなく なれし心を 思ひては うき世を去れる かひもなく 思ひ出で泣き われやせむ と思ひかく思ひ 思ふまに 山と積もれる しきたへの 枕の塵も 独り寝の 数にし取らば つきぬべし なにか絶えぬる たびなりと 思ふものから 風吹きて 一日(ひとひ)も見えし 天雲(あまぐも)は 帰りし時の なぐさめに いま来むといひし 言の葉を さもやとまつの みどりごの たえずまねぶも 聞くごとに 人わろげなる 涙のみ わが身をうみと たたへども みるめも寄せぬ 御津(みつ)の浦は かひもあらじと 知りながら 命あらばと 頼めこし ことばかりこそ しらなみの 立ちも寄りこば 問はまほしけれ


なにとぞ、お察しください。昔も今もわたくしの心が安らかでいるときなどないことを。わたくしはこのまま果ててしまうのでしょうか。

初めてあなたさまにお逢いした秋には、あなたからいただいた愛情深いお言葉も、すぐに色褪せてしまうのではないかと、嘆きに嘆いたものでした。冬には、遠く旅立つ父を惜しんで、初時雨のような涙の雨が、雲が持ちこたえることが出来ないほどに降りそぼち、心細くはありましたけれど、「娘をお忘れなく」と父が言い残しておいたかと聞きましたから、いくらなんでもと思っていたのもつかの間、父が遠いかなたに行ってしまったうえに、あなたまで急に疎遠になっておしまいになり、わたくしがうつろな心で時を過ごしているうちに、二人の間には霧が立ち込め、あなたからの便りも絶えてしまったのです。

けれど、あの古巣に帰るという雁のように、あなたが戻ってきてくれることもあるかもしれないと思って待ち続けてまいりましたが、そのかいもありません。こうして、わが身は蝉の脱殻のようなむなしさ、その蝉の羽にも似たあなたの薄情さは今に始まったことではありません。前々からこのようにあきれるほどに痛ましい心を抱いた身の上なので、尽きぬ涙の涙川に身をなして泣き暮らしてまいりましたが、前世にどんな罪を犯したというのでしょう。あなたとの縁から逃れることも出来ず、定めない浮世に漂って、つらい思いをするばかり。

水の泡が消えるように死ねるものなら死んでしまいたいと思うけれど、こんなに悲しい目にあって、しかも陸奥にいる父の帰京を待たずには死ぬにも死にきれない。せめて一目会ってからと思い続けていますと、嘆く涙で袖が濡れるばかり。こんなに泣き濡れる嘆きをしないでもすむ境涯に暮らすこともできるでしょうに、出家の身となってお逢いするあてどがなくなってしまったら…やはり恋しく思うこともおありでしょう。

あなたがおいでになって、うちとけ馴染みを重ねた昔の心を思い出しますと、せっかく俗世を捨てたかいもなく、追憶の涙に泣き濡れて、執着を断ち切れないかもしれません。ああも思いこうも思い、思い乱れているうちに、山のように積る枕の塵の数は大変なものですが、それも独り寝の夜数には及びもつかぬことでしょう。

どうせ、あなたとの仲は遠い旅のように隔たり、おいでくださる機会もなくなったと思っておりましたのに、あの野分ののちの一日、天雲のようによそになりゆく人と思っていたあなたが、姿をお見せになってお帰りの時、気休めに「近いうちに来るよ」と仰ったお言葉をまに受けて待っております幼子が、たえず口まねをするのを聞くたびに、みっともないことには、わが身をつらいと感じている涙が、湖のように溢れますが、こんな見る影もない私の所などにはおいでくださるはずもなく、はかない望みとは知りながらも、ただ、いつぞや「命のあるかぎりは」と、あてにおさせになったことが、真実のお心かどうか分かりませんので、お立ち寄りくださったら、お尋ねしたいと思っているのです。


さぁ。皆様も愛しいあの人に長歌を送ってみましょう!笑

かがやく日の宮(藤壼)について

源氏が、桐壼帝が寵愛される「藤壼の宮」に負けず劣らず美しい皇子であったために、時の人は、この皇子の事を「光る君」と呼びます。そこから「光源氏」という名前がつきました。

そして、光源氏が憧れてやまないこの「藤壼の宮」も、この「光る君」に対して、「かがやく日の宮」と称される事になるのですが、この「日」は「妃」の掛詞になっているのではないかといわれています。ここでの「妃」というのは、帝の正妻である中宮や皇后の身分ことを指していると思います。

源氏物語のストーリーを知っている現代人から見れば普通に納得できる話(後に藤壼は桐壼帝の中宮になられるので)ですが、このときは、まだ、弘徽殿女御が中宮になってもおかしくないと思われる時期なので、世聞の人が藤壼のことを「妃」と呼んでいたということに少し驚いてしまいます。

藤壺は先帝の娘ですから身分も弘徽殿女御より高かったので、問題にならなかったのでしょうけれど、弘徽殿女御からすればひどい話ですよね。嫌われ役の弘徽殿女御ですが、桐壼帝ももう少し優しくしてあげればいいのに・・・と思ったモモなのでありました。

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