プロフィール

モモ

リンク

管理人サイト

草の庵

カピバラさん

おすすめ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

最新記事一覧

最新の記事です。感想などお気軽にどうぞ♪

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

月別アーカイブ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

休みは露と消え・・・(BlogPet)

斉信はモモとここまでフリーを旅行するつもりだった。
でもきょう斉信はモモでハンドを旅行する?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「斉信」が書きました。
スポンサーサイト

休みは露と消え・・・

うぬぅぅぅ。この二日、休みは休みだったけど、何もしてない気が(^_^;)あ。旅行の予定立てたり(これが結構悩んだ)連絡取ったり、本読んだりしましたけどね。

最近仕事でイラレを少し使うので、線くらいは引けるようになったんですが・・・やっぱりフリーハンドのほうが描きやすい。見た目は断然イラレのほうがきれいなんですけどね。もっとちゃんと下描きを描かないから線がとりにくいんだろうなぁ。

約半年~一年前に描いたイラストの下描き・・・いつになったら日の目を見るのか。なんとかサイトも更新したい今日この頃です。あぁ。でも夏休みが終わらないと絶対無理。今からお盆始まるまでは死に物狂いで頑張らなくては・・・。

今日も仕事!

この三日ほど、仕事が忙しく(力仕事でもあり)古典の本を読めませんでした。光源氏と末摘花の話でず~っと進みそうで進まない。(笑)源氏にとってもはやく「紅葉賀」に移りたいはず。今日が終われば明日は休みなので、頑張ります。ファイト!!

8/12~15辺りに、近畿のほうへ参ります。京都国立博物館、奈良国立博物館辺りを散策してこようかと思っています。もし、お知り合いの方で、ご一緒出来そうな方がいらっしゃいましたらご連絡くださいませ。調整してみます。

さてさて、最近ティラピスなるものにはまって、コツコツ運動しています。確かにすぐ痩せる!!もう少ししたら引き締まった自分の体に会えると思ってやっておりますが・・・はたして如何に?!!というところですね。(笑)

お知らせ

拙サイト別館(?)『枕草子同盟』を閉鎖いたしました。理由は、心無き方により荒らされていたからです。今、それに対応する時間がとてもとれそうにないので、閉鎖という形をとらせていただきました。申し訳ありませんm(__)m

また、ず~っと放置していました『頼君同盟』こと、プチ公任・藤原定頼を応援する同盟も閉鎖させていただきました。頼君のページを作ろう作ろうと思いながらまだ何も出来ていないのはとても残念です。ぼちぼちと再開していきたいと思います。

サイト内、少し模様替えしました。MENU画面にある京極為兼の和歌(だったと思うのですが、上の句が思い出せない・・・定子に和歌を送られた清少納言みたいだなぁ(^_^;))”忘られぬべき雲の上かは”妙に心に残ったフレーズです。これを副題にした京極為兼の本があるので、それもまた読んでみたい。ミネルヴァ日本評伝選は古代から現代までの厳選された人物の評伝で、気になる人の名前がズラリ。文体も読みやすく書かれているそうなので、図書館ででも借りようと思います。

紀貫之

人物叢書『紀貫之』を読んでいます。まだ途中なのに返却期限が迫っている(>_<)。明日までに読めるのかしら・・・。笑

貫之さんは言わずと知れた古今和歌集の編纂者。あの古今和歌集仮名序を書いたことでも有名です。あと、『土佐日記』も彼が女に擬して書かれたという珍しい書物です(和歌の世界では女の気持ちを男が歌うのはよくあることだけど、仮名日記では他に知りませぬ。・・・出家した定家さんはよく仮名文字で日記をしたためているらしいけど形態が全然違うのでこれは別。苦笑)。

まだ、この時代の背景を、頭の中で完全に整理できていないので、詳しいことは書けないのですが(何せ知らない藤原某さんと紀某さんがたくさんでてきて頭が混乱しております。藤原高藤まで出てきた時はびっくりした。勧修寺懐かしい~)、私が一番心に残ったのがややこしい政治の話・・・ではなく、貫之と躬恒との大親友の和歌のやりとり・・・。

七日のあしたに躬恒がもとより
君に逢はで一日二日になりぬれば今朝彦星の心ちすらしも
とある返し
あひ見ずて一日も君にならはねば織女(たなばた)よりもわれぞまされる
●七夕の星に託して一日千秋の思いを述べ合ったもの

凡河内躬恒が月明かき夜来たるによめる
かつ見れどうとくもあるかな月影のいたらぬ里もあらじと思へば
●貫之が親友を独占したい気持ちから人付き合いのいい躬恒がどこへでも出向くことを恨んだもの

躬恒が
まことなきものと思ひせばいつはりの涙はかねて落さざらまし
とある返りごと
惜しからぬ命なりせば世の中の人のいつはりになりもしなまし
●躬恒がどうせきみに真実の友情なんか無いと思っているから空涙など落とさないでくれと駄々をこねたのに対して、貫之が自分は誓いを破ったら命はないと神に誓った、だから世の常の偽りは決してやらぬから安心したまえと答えた

躬恒がもとより
草も木も吹けば枯れ行く秋風に咲きのみまさるもの思ひの花
返し
ことしげき心より咲くもの思ひの花の杖をば面杖(つらづえ)につく
●近頃憂鬱で叶わないよと躬恒がこぼしたのに対して、貫之がそんなに憂鬱ならその「もの思ひの花の枝」で杖でも作って頬杖突いたらどうだとひやかしている

これは、この時代特有なのか?それとも二人の仲がよすぎるのか???笑 ものすごく穏やかな(且つ親密な)二人の姿が思い浮かべられます。無二の親友とはこういうのをいうのでしょうか。ちなみにすべて『貫之集』に載っているようです。

後、宇多天皇について、私は道真が大好きな天皇って思っていたのですが、それはもちろん、文芸がお好きだったのですね。出家して仏道修行に励むかと思えば、酒飲み大会(大酒のみを集めて誰が一番お酒をたくさん飲めるか競わせた)開いたりしてて・・・謎だ。でも、後鳥羽さんもそうだけど、こういう時代のリーダーが歌合をさかんに催してくれることで和歌集というのができるし、新しい歌の世界が作られていくものなんだなぁとも思いました。半ば仕事でもないと(無理やりに自分の心を高めないと)、膨大な和歌の整理や多くの詠作なんてできないだろうなぁ。

・・・が、実は私は貫之の歌よりも貫之の従兄・友則の歌が好きだったりします。たとえば・・・

久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
きみならで誰にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる
色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける
雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし

などなど・・・。

貫之の従兄というのは知っていましたが、二十歳も年上だとは知りませんでした。古今集編纂中に没したとか。

と、途中までしか読んでいないので、こんなところです。続きは・・・書けるといいな。笑

藤原定家読了

もう、本が手元にないので詳しく書けないのですが、『藤原定家』読了しました。途中まで後鳥羽院と仲がよかった(というか、まぁ合わせていたんでしょうけど)のに、承久二年(1220)二月の内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられるなんて・・・。しかも、その後、承久の乱で隠岐に流された院と最後まで和解しなかったなんて・・・。

この本を読んでいると、院は元々破天荒というか、ものすごい偉大なのですが、すごすぎて付いて行き難い感じがしました。いろいろな方面への関心であったり集中力が半端ではない。すぐれた御方です。ただ、怒りに触れるとこれまた非常に恐ろしい・・・。ちなみに後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子。四の宮です(四の宮という響きになぜか心がぐっと引かれる私。笑)。本当は、安徳天皇と同様平家にしたがって西国に下るはずでしたが、乳母が考え直したことで命拾いしました。しかも、安徳天皇の次の天皇に後白河院が指名したのです。思えば、この辺からして超強運な運勢なのかも・・・。院が、承久の乱であっさり負けてしまったのは何故???まだまだこの時代については無知なのでさっぱりです。ちなみに、院は定家より18歳年下っていうのがまたすごい!!と思ってしまいました。

当時は、百首歌がものすごく流行っていて、定家も何度も詠進しています。この百という数が後に百人一首につながっていったのかなぁなんて安易に想像してしまうほどに。

あ。後、俊成が亡くなる場面は涙ものでした。定家は何度も俊成にピンチを助けてもらっています。晩年に生まれた定家を掌中の玉といわんばかりに可愛がっている俊成。その俊成は定家に、息子・為家が官位を望んでも、自分の役職を手放してはいけないよ・・・と言い残していたらしいけど、結局定家も息子が可愛かったのか、中将を辞して、為家に近衛府の職を譲っています。もし、俊成が同じ立場でもきっと定家に譲ったと思うよ~なんて思っちゃいました。

後、九条(後京極)良経がとても気になる存在です。この人は思いもよらない題材をテーマに詠歌に挑戦していて(定家も誘って読ませたりしている)、びっくりしました。本当に、当時は天皇も公卿も歌作りがさかんに行われていたんだなぁと思いました。平安中期も詠歌はしてただろうけど、比じゃない。秀歌も多いです。ただ、本歌取りの歌が多いので、いきなり読んでも中々意味を理解するのは難しいなぁと思ってしまうのでした。

一日遅れの七夕

天の川扇の風に霧晴れて 空すみわたるかささぎの橋 清原元輔(『定家八代抄』二九五)
定家が選んだ和歌から、元輔さんの一首

一日過ぎてしまいましたが、昨日は七夕でしたね。こちらは、生憎の(?)曇り空でした。旧暦で考えると、まだ一ヶ月ほど先なので(7月31日)、その日は晴れるといいですね。そうかぁ。もうすぐきれいな星空が毎日見えるわけですね(←現在、超田舎在住)。今はまだ曇ってばかりなので気にならないですけど。

そういえば、本日、近くのカルチャーセンターに『かな書道』の講習を申し込んできました。8月からなので、まだ少し先ですが、そう思ってても仕事をしていたらあっという間に時間が過ぎるので、そそくさと申し込んできました。せめて古筆切が読めるくらいにはなりたいと思っています。もちろん書くことも十分に楽しみたいですvvv実は、かなは本格的に習ったことがないので、どうなるか楽しみです。

源氏物語(BlogPet)

モモで、精通しなかった?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「斉信」が書きました。

恋しかりける

今日、職場で「最近、藤原定家が気になる」といったら、「現実世界で恋ができなくなっちゃうよ~」と言われました。

んん~、私は確かに斉信さんとか公任さんとか行成さんが好きだけど、(最近定家さんも気になっているけど)現実の恋とは全然違うんだけどなぁ~なんて思います。彼らも同じ人間。平安時代だからって何も物語世界のような非現実的なものではないんだけどなぁ・・・。

平安に対するイメージがよくないと思うことが、ままありますね。光源氏だけが平安じゃないんだよー!!と言いたい。

と、その光る君ですが、「若紫」読みました。源氏、思いっきり若紫を拉致っておりました。若紫は最初源氏を恐れていたんですね。ほとんど顔も見たことない人(しかも男)ですもんね。

若紫はとにかく可愛らしい。・・・可愛らしいという言葉につきる。幼い子が父親に甘えるようにだんだんと源氏に心を許していきます。こうなったらますます可愛くって仕方ないといった風で。

・・・若紫と出会ってから、彼女を引き取るまでの間に、藤壺との密会が書かれています。それで藤壺は身ごもってしまうのですね。やはり、藤壺のほうでも少なからず源氏を想っていないと、何度も逢瀬を重ねることはできなかったでしょう(この巻では、以前から二人が逢っていた事が書かれています)。

「若紫」では、まだ見ぬ明石入道の娘の話が出てきます。源氏は女の話を聞くと、何かとあはれに思って、気にかかってしまう性格のようですね。笑 プレイボーイなる所以でしょうか。

俊成パパと定家卿

『源氏物語』夕顔の巻きまで読み終えました。・・・夕顔の巻は、まるで2時間のサスペンスドラマでも見るような心地でした。結末は知っているけど・・・というか、六条御息所なんてほとんど出てこない。この段階では例のもののけが誰かまではよく分からないんですね。光源氏が六条のほうでも好ましく思っていないだろうと勝手に想像しているだけで・・・。

私が一番びっくりしたのは、源氏の従者である惟光までが色好みとして書かれていたことで・・・。今までのイメージとして、源氏をたしなめるような存在だと思っていましたが、大きな勘違いでした。だから原文を読まなくては・・・(^_^;)まぁ、惟光にも共感されなければなかなか夕顔に通うこともできませんよね。夕顔の巻きにちょこちょこ空蝉や軒端の荻との文のやりとりが出てきて、それにも興をそそられました。意外にも、和歌だと大胆な空蝉。軒端の荻は結婚してるし。これはまた続きを読むのが楽しみになりました。

夕顔の巻は帚木や空蝉などのだらだらした感じの文章が一転、あっというまにドラマは進み、光源氏も病に倒れ、ここまでの話だったら光源氏の人生も人と変わらないなという感じ。でも、おそらくこの帚木から夕顔は後々付け加えられたであろう巻なので、これからが本当の源氏ストーリーというわけです。続きを読むのが楽しみになっております。

ところで、源氏つながりというわけではないですが、只今藤原定家(久保田淳)を読んでおります。浪漫的な定家の性格素敵です☆彡

藤原定家は俊成が四十九歳の時の子で、俊成は当時まだ顕広と名乗っており、正四位下左京大夫でした。母は若狭守藤原親忠の女で美福門院加賀といい、鳥羽院の妃、近衛天皇の母后美福門院の女房です。

俊成が顕広と名乗っていたのは、幼いころ父・俊忠を失って、九条民部卿・藤原顕頼(葉室流)の猶子となっていたからでしょう。

定家の母は俊成と結婚する以前、長門守・藤原為経の妻として隆信を生んでいます。隆信は似絵の大家として著名です。その隆信は定家の異父兄ということになります。しかし、為経は隆信が生まれた翌年出家し、寂超と号します。その後、加賀は俊成と結ばれますが、俊成と加賀が結婚するまでには大きな障害がありました。俊成はそれ以前、この為経の姉妹(為忠女)を妻としており、加賀は義理の兄弟の配偶者だったのです。つまり、加賀の前夫の姉妹が俊成の妻という非常に近い親類関係だったわけです。
keizu.jpg


『新古今和歌集』恋・三には、二人の歌の贈答が残されています。

女につかはしける
よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ 皇太后宮大夫俊成

返し
たのめおかむ たださばかりを 契りにて うき世の中の 夢になしてよ 藤原定家朝臣母

俊成は加賀との間に、成家・定家・八条院三条・高松院大納言・上西門院五条・八条院中納言・前斎院大納言・承明門院中納言と多くの子女を設けています。俊成は『長秋草』で妻のことを「年ごろの友、子供の母」と呼んでいます。

この定家の母が亡くなったのは建久四(一一九三)年二月十三日のことで、当時定家は三十二歳。友人や主人(良経)から弔問の歌が贈られ、悲しみのうちに季節が巡り初秋になります。

七月九日、台風めいた風が京の都に吹き、雨が降りました。この頃、父と居を別にしていた定家は、俊成の許を訪ねています。この時詠まれた歌が俊成の『長秋草』に、

七月九日、秋風荒く吹き、雨そそきける日、左少将まうできて帰るとて、書きおける
たまゆらの 露も涙も とどまらず なき人恋ふる 宿の秋風

返し
秋になり 風のすずしく 変るにも 涙の露ぞ しのに散りける

として収められています。同じ贈答歌が、定家の『拾遺愚草』にも収められていますが、その詞書は「秋、野分せし日、五条へまかりて、帰るとて」というもので、定家はこの秋風を野分と捉えているのです。この詞書の違いから、久保田氏は定家が『源氏物語』の二、三の場面を想起していたに違いないと考えられています。

その一つは「桐壺」。桐壺更衣を失ったのち悲しみにくれている桐壺帝が、更衣の母を弔う使いとして、靫負命婦を使わせる場面。野分の後、桐壺帝は命婦を更衣の母の許へ遣わしました。

二つ目は「野分」。父とは住まいを異にしている夕霧が、六条院へ見舞いにいき、美しき義母・紫の上を垣間見る場面。

三つ目は、「御法(みのり)」。紫の上が亡くなり、夕霧があの野分の巻きのことを思い起こしている場面です。

野分めいた風が京の街を吹き荒れた日、妻を失った老父を見舞おうと思い立ち、家を出た定家が、そのときすでに自らの姿を『源氏物語』の夕霧とさかねてあわせていたというのです。もちろん俊成は光源氏です。氏は、虚構である『源氏物語』の叙述が、この悲しい体験に遭遇したことによって人生の真実として了解され、定家はおのずとそのような行動をとらされたと考えられています。

定家が無意識のうちに自分を夕霧に重ねたかどうかはわかりませんが、自分の生活の一部に溶け込むほど愛読していた『源氏物語』を享受してくれたのは俊成であり、源氏供養などもした母でした。定家が愛してやまなかった母に、紫の上を重ねたとしても不思議はないように思われます。定家の浪漫的な性格ゆえ・・・とも考えられますが。(笑)私は定家のそういうところが結構好きみたいです。

定家についてはまだまだ面白いことがありますが、今日はこのへんにて。

京極為兼

さてさて、あれからなぜか気になる京極為兼さんの本をもう一つ借りてきました。土岐善麿先生がお書きになった『京極為兼』。私のような和歌初学者にも分かりやすく書かれておりました。・・・といいつつ、和歌のほうは詳しく読めておりません(>_<)とりあえず、最後の「その業績と生涯」という部分から読んでみました。

為兼さんは鎌倉幕府政治の後期、持明院統(北朝)の実力者として活躍した政治家です。政治家であり、歌人ともいえます。大覚寺統(南朝)や鎌倉幕府を相手に、三者間の調整をはかる立場にありました。歌人としては、当時沈滞した歌壇に立ち向かい、革新的な機運を促しました。その歌論に、『為兼卿和哥抄』一巻があり、生前一万首以上も詠んだと伝わっています。持明院統につらなる人たちを中心に京極派の歌風を推進し、伏見院の勅撰である玉葉和歌集を編纂しました。

以前、為兼の父・為教と伯父・二条為氏(為教の兄)がすこぶる仲が悪かったと書きました。それは、それぞれの家の歌風が相容れなかったこともありますが、単に歌だけでなく、政治的な対立もあったろうと思われます。すなわち、為氏の子・為世は大覚寺統の師範であり、為兼は持明院統の師範であったからです。

大覚寺統の治世となれば、当然為世が歌壇的勢力を、逆に持明院統の治世となれば、為兼がそれを得るという情勢だったのです。つまり、大覚寺統の後宇多院の院政になると、為世が『新後撰集』を、持明院統の伏見院の院政になると、為兼が『玉葉集』を、さらに後宇多院の院政下に、ふたたび為世が『続千載集』を撰進するというありさまだったのです。

為教は、兄・為氏にけむたがられ、一族の歌合せにも招かれないような不仲であり、為氏が『続拾遺集』を作った際、為教一族の入集歌が少ないことが原因で発病し、訴状を出してから四ヵ月後に二条派への遺恨を抱いたまま死にいたったのでした。
(あ~。なんか誠信のような話だな・・・。)

今日はここまで。為兼の話は後に続く←続けられたら・・・。

| ホーム |


 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。