プロフィール

モモ

リンク

管理人サイト

草の庵

カピバラさん

おすすめ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

最新記事一覧

最新の記事です。感想などお気軽にどうぞ♪

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

月別アーカイブ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

藤原定家読了

もう、本が手元にないので詳しく書けないのですが、『藤原定家』読了しました。途中まで後鳥羽院と仲がよかった(というか、まぁ合わせていたんでしょうけど)のに、承久二年(1220)二月の内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられるなんて・・・。しかも、その後、承久の乱で隠岐に流された院と最後まで和解しなかったなんて・・・。

この本を読んでいると、院は元々破天荒というか、ものすごい偉大なのですが、すごすぎて付いて行き難い感じがしました。いろいろな方面への関心であったり集中力が半端ではない。すぐれた御方です。ただ、怒りに触れるとこれまた非常に恐ろしい・・・。ちなみに後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子。四の宮です(四の宮という響きになぜか心がぐっと引かれる私。笑)。本当は、安徳天皇と同様平家にしたがって西国に下るはずでしたが、乳母が考え直したことで命拾いしました。しかも、安徳天皇の次の天皇に後白河院が指名したのです。思えば、この辺からして超強運な運勢なのかも・・・。院が、承久の乱であっさり負けてしまったのは何故???まだまだこの時代については無知なのでさっぱりです。ちなみに、院は定家より18歳年下っていうのがまたすごい!!と思ってしまいました。

当時は、百首歌がものすごく流行っていて、定家も何度も詠進しています。この百という数が後に百人一首につながっていったのかなぁなんて安易に想像してしまうほどに。

あ。後、俊成が亡くなる場面は涙ものでした。定家は何度も俊成にピンチを助けてもらっています。晩年に生まれた定家を掌中の玉といわんばかりに可愛がっている俊成。その俊成は定家に、息子・為家が官位を望んでも、自分の役職を手放してはいけないよ・・・と言い残していたらしいけど、結局定家も息子が可愛かったのか、中将を辞して、為家に近衛府の職を譲っています。もし、俊成が同じ立場でもきっと定家に譲ったと思うよ~なんて思っちゃいました。

後、九条(後京極)良経がとても気になる存在です。この人は思いもよらない題材をテーマに詠歌に挑戦していて(定家も誘って読ませたりしている)、びっくりしました。本当に、当時は天皇も公卿も歌作りがさかんに行われていたんだなぁと思いました。平安中期も詠歌はしてただろうけど、比じゃない。秀歌も多いです。ただ、本歌取りの歌が多いので、いきなり読んでも中々意味を理解するのは難しいなぁと思ってしまうのでした。

<< 紀貫之 | ホーム | 一日遅れの七夕 >>


コメント

皇子とかを命拾い

皇子とかを命拾いしたみたい…



コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。