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受戒

先日の京都奈良旅行・・・あの後、京都国立博物館に行って、『美のかけはし』を見ました。頼朝像の前でうっとり。やっぱり美男~vvv足利直義かもしれないと言われている似絵ですが、どっちにしても美形です。となりの平重盛公がイメージと違ってややおじいちゃん気味。でも、これも重盛じゃないという説があって・・・。まぁどちらにしろ、目的はこの絵をみることだったので、閉館一時間前に駆け込んだにしてはいろいろ楽しいものが見れましたよ☆彡

・・・と、お話はここから。

次の日、朝から風俗博物館に行こうと思ったのですが、お盆中で休み(調べてから行け~!!(^_^;)・・・いや、見る間もないくらい忙しかったのですが。)だったので、そのまま奈良へ移動しました。

P1000896.jpg
電車の中から


うめぞーさんとみかんさんと合流して、東大寺二月堂三月堂(法華堂)などを拝観。金剛力士像などをみながら、何故か全く関係ない平安話で盛り上がる自分(苦笑)。この時は公任さんの話題で盛り上がりました。久々に四納言の話題が出て、やっぱり平安中期好きだなぁ~って思いました。後ね、後鳥羽院は絶対おかしい(←またまたぶっとび発言だが)という話題でも盛り上がりました。

P1000910.jpg

二月堂から見下ろす奈良

その後で、東大寺の戒壇院に行ったのです。戒壇院は、天平勝宝六年(754)当時中国における戒律の第一人者鑑真が来朝した際、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇始め百官公卿四百人に戒を授け、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により造営されたもので、創立当時は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧房、北築地、鳥居、脇戸などがあったという建物です。

皆様が、戒を受けるということがどういうことだったのか、具体的に(ビジュアル的に)どういう感じだったのか気にされていたのを、とても面白い問題だなぁと思ったので、帰ってきて調べてみようかなと思いました。まだ原文は確認できていないのですが、東京大学史料編纂所のデータベースを見ていると、どうも道長も東大寺で受戒しているようなんですよね。戒壇院だったかどうかは分かりませんが・・・。

って、職場で休み時間に調べていたから、せっかくプリントしたのに持って帰ってくるの忘れた。家のパソコンからはなぜか見れないんですよね・・・。残念。

明後日が終わったらお休みだから、ちょっと見てみようと思います。旅の続きはまた今度。

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コメント

あまり参考になりませんが、

どうもm(__)m
先日はお疲れ様でした。少ししたらまた、手紙などしたためますので、今日はNETで(^^ゞ

この2~3日は暑いけど台風余波の風があったので、それでも過ごせたのですが、今日はその風もやんで、自分の息すら暑くて仕方がない、まさに熱帯夜です。
本当に、このくそ暑い盆地の奈良や京都に、どうして昔の人は都を築いて、あの暑苦しそうな装束で過ごしていたものやら……

さて、問題の受戒ですが、正式な作法では戒律を授ける僧侶が三人に、証人となる僧侶七人の計十人が必要なのだそうです。
鑑真大和上より最初に受戒(菩薩戒)したのは、聖武太上天皇と光明皇太后、孝謙女帝で天平勝宝六(754)年の四月の事です。
この時にはまだ東大寺に戒壇院はなく、金堂(大仏殿)の前に戒壇を設けたと『唐大和上東征伝』に書いてあるとか……相変わらずこの資料は当っておりません(-_-;)
しかし鑑真和上は唐にいる間に、四万人もの人々に受戒したというので、十人もの僧侶がいなくても授ける事のできる、略式の作法があった事も確かです。
日本にやって来た時の招来品に『如来の肉舎利三千粒』とあり、受戒した相手にその本尊として渡そうとしたと考えられるのですが、この略式作法は、当時の仏教界には容れられなかったようです。
この後、東大寺以外にも筑紫観音寺、下野薬師寺にも戒壇が置かれ、受戒も僧綱が牛耳るようになり、一線を退く事を余儀なくされた鑑真は大和上の称号を与えられて唐律招提(唐招提寺)に入ります……なんて説明をしていたら、いくら時間があっても足りませんねσ(^◇^;)
この辺の奈良時代の仏教史に関しては、奈良大学の東野治之教授が何か書いていたような記憶があるのですが、この先生の本も殆んど読んでないし(^_^;)

奈良にしても平安にしても、坊主が絡むとややこしくていけませんわ。宗教に関するベーシックな知識も、満足に持ち合わせていないのが、一番の原因なのですが。
そうそう、菩薩戒というのは、僧俗関係なく受けられるというくらいは聞いた事あります。
平安時代のお公家さんらも、これを受けたのかな?

あたしも京都・奈良にいってたよー!!
偶然。
京都では鴨川の納涼床で京料理を食べました♪
奈良もひさしぶりに観光をちょっとして東大寺と春日大社にいったよ!
モモともしかしたらすれちがっていたのかなーなんて考えるとあえなくて残念だったなぁ~(´Д⊂)

先日はお世話になりましたm(__)m>うめぞーさま

うめぞーさま、お返事遅くなりましたm(__)m
先日は、大変お世話になりありがとうございました。
奈良は暑かったけど、それ以上に楽しくて有意義な時間をすごさせていただきました。万華鏡、毎日見てますよ~。時間忘れちゃいますよね。

さてさて・・・話題の(?)受戒なのですが、いささか調べるのに苦戦しております。といいますのも、丁度受戒について載っている古記録『小右記』記事の年代をコピーしていないから・・・この辺りで小右記貸してくれそうなところは国立の大学図書館くらい。ということはめちゃめちゃ遠いんですよね(^_^;)

多少持っている記事を見ると・・・受戒のことよりも受戒に立ち会おうとした(息子・顕信の受戒)道長一行が僧から石を投げられている記事だったり←さすが・・・というか、実資のチェックはそっちか!と思わずつっこんでしまいましたが。

どうも、まだまだ奥が深い問題のようなので、ゆっくり見ていけたらと思っています。小右記はどうにかして見たいなぁ。大日本古記録の小右記3・4・5巻・・・誰か貸してくれ←そんなの持ってる人そうそういないだろう・・・(^_^;)

手元にある史料でちゃんと確認はできていませんが、平安時代には東大寺と延暦寺で受戒する人が多かったようです。

菩薩戒ではないですが、延喜五年四月十四日に斉世親王等が「羯磨戒(かつまかい)」というのを受けたそうです。「羯磨戒(かつまかい)」とは、比丘(出家得度して具足戒を受けた男子のこと)が戒を受けることのようです。戒にも段階があっていろいろあるんですね。

寛和二年に源為憲が『太上法皇御受戒記』を撰進しているようなので、この辺り残っていれば何か分かるかも・・・でも、聞いたこと無いから残ってないのかなぁ。『群書類従』あたりになければないんだろうなぁ。為憲といえば『三宝絵』なども書いたことで知られているから頼りになるだろうに・・・っと、今ネットで検索してみたら『群書類従』に残っているみたいですね。見てみたいなぁ。

ちなみに、花山法皇は寛和二年十月に延暦寺にて御受戒。道長男(顕信)は長和一年五月二十三日に延暦寺にて受戒。寛仁三年九月二十九日、道長が東大寺にて受戒。長元四年三月三十日場所は不明ですが、選子内親王御受戒。長暦三年五月七日、上東門院彰子、御剃髪御受戒。

・・・といった具合です。

仏教に関するベーシックな知識なんて・・・死ぬまでに得られるのかっていうくらい奥深いですよね。私も卒論書いてるときにここは手を出しちゃだめだと本能で察知しました。それを理解するのはどう考えても期間内に間に合わないので。苦笑

うめぞーさんの説明を聞いて、鑑真について自分は全く知らないんだなぁ~ってことが分かりました(←おいおい)。歴史上の有名人は偉業を成し遂げたことばかりがクローズアップされて、その人間像はあまり重視されていないんだなぁといつも思わされます。

また、何か分かりましたらブログにちょこちょこ書いていきますね~。とりあえず、石を投げられた事件は面白いので書こうかと思います。ただ、実資の日記は長い!!一日の記事が長すぎる!!(>_<)さすが、賢人右府殿です。

O(≧∇≦)O

うわぁ~milk久しぶりぃ!!!元気でやってる?
milkが同じ時期に京都・奈良に行ってたなんて・・・Σ( ̄Д ̄;)がーんっ!

醍醐寺行った時milkと初めて来たなぁ~って思い出してたんだよ。本当に残念だぁぁぁぁ。東京はやっぱり遠いよね。どんな風に過ごしてるのか話したいね☆彡また時間があったらメッセンジャーとかしようね(*^_^*)

鴨川の納涼床かぁ。涼しかったろうね。見た目にも耳にも♪私は一日中暑くって仕方なかったよ。苦笑

無理しないようにね。お互い頑張りましょー!!

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