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再び公任さん?!!

最近、私の中(周り?)で小野宮家が熱いです(笑)。
特に、公任さんと定頼辺りが・・・。
先ほど友人のブログを読んでいて気づかされたのですが(えりかさんありがとう!!)、公任さんの正妻(つまり、定頼の母)は昭平親王の娘(関白藤原道兼養女)。その娘のお母さんは藤原高光女だったんですよ。

高光といえば、為光のお兄さんなのです。つまりその父は師輔さん。道長や斉信の祖父ですよ。あぁ・・・めっちゃヤヤコシイ!!けど、私にとってすごい発見。公任と定頼の和歌って少し系統が違うような気がしてたのですが、もしかすると母方の血を受け継いだのかもとおもいました。

■超略系図(笑)
keizu_akihira_onnna.jpg


それに、公任の妻は私にとっては長らく謎だったので、ここにつながるのかと思ってびっくりしました。病弱なイメージしかなかった。そのくせ、ものすごい長生きというハチャメチャなイメージが・・・。これはかなり調べたくなってきました。笑

昭平親王女かぁ。面白いなぁ。ちなみに、高光さんは若いうちに出家しちゃうのですが、そのことが『多武峰少将日記』という日記文学として残っています。ず~っと前にすっごい気になったので、実はコピーして持ってるんですよね。これを読んでみようと思いました←自分でもよく持ってたなと思うけど。笑

これによると、作者は道綱母か?みたいに書かれてた記憶があるのですが、かなり古い記憶ですので曖昧です。この辺も読み直そうと思います。

<< ご無沙汰でございますm(_ _)m | ホーム | Come come!!道長さん >>


コメント

読んで下さいましてありがとうございます♪

 モモさん、こんにちは♪

 私のつたないブログ記事「藤原高光とその子孫たち」を読んで下さいましてありがとうございます~。

 そうなんです、定頼さんって高光さんの曾孫なんですよね。それで、定頼さんのお母さんが昭平親王の女…。彼女って病弱だったのですね。知りませんでした。それでいて長生きだったというのは興味を引かれますね。

 高光さんも面白いですが、源氏から親王に戻されてしまった昭平親王にも興味を引かれます。彼も舅の高光さんと同じように出家していますよね。昭平親王は高光さんの生き方をお手本にしたのかしら?この時代、面白い人が本当に多いですよね。↓でご紹介されている本も読んでみたいです。

遅くなりました~。

こんばんは。えりかさん。
お返事がすっごくおそくなってしまってすいません。実は、一度VISTAを導入したのですが、非常に不具合が多いので、XPに戻していたのです。やっと元の環境に戻ってほっとしております。まだVISTA未対応のソフトが多いので困っちゃいますね(^_^;)

えりかさんのブログは毎回細かいところまでよくお調べになっていらっしゃるなぁと楽しみに拝見させていただいてますよ。私が詳しいのは本当に平安中期の一部なので、もっと見識を深めたいと思っています。

>昭平親王の女
私の記憶がかなり前のもので、定かでないのが問題ですが、公任集をもう一度紐解いてみようかなぁと思ってます。後、集英社から出ている『王朝の歌人7 藤原公任』(小町谷照彦・著)に載っているかな・・・このシリーズは読みやすくてよいですよ。結構詳しいですし。

この本、ざっと目を通してみました。それによると、公任さんと昭平女が結婚したのが正暦元年(九九〇)ということなので、公任25歳の時ですね・・・遅い。初婚ではないでしょうね・・・。

実資の『小右記』に「頭中将(公任)、今夜密々九親王女ニ通フト云々」(正暦元年十二月二十五日条)とあるようです。『栄華物語』「見はてぬ夢」にこの結婚について詳しく書かれているとのことでしたので、少しその内容を書きますね。

昭平女はかなりの美貌で評判が高く、粟田殿(道兼)が評判を聞きつけて養女にした(これは自身の妻が藤原遠量の娘で、昭平親王室のいとこだったから)。多くの公達から求婚されたが、殊に公任が熱心で、手紙の書きぶりも優れていたので婿取りされることになった。道兼の二条邸の東の対を立派に飾り立てて公任を迎えた。公任は姫君を気に入ってしばらく通っていたが、遠慮がちなので、自邸(四条の宮)の西の対を整えて、引き取ることにした。公任の姉妹の遵子や子も大変うれしいこととしてご対面なさった。

・・・簡単に書くと、こんな感じです。正暦三年(九九二)に定頼が生まれたということで、仲睦まじかったんですね。病弱という記述はないので、私の勘違い(記憶違い)かなぁ。また調べてみますね。

それにしても、公任やるぅ!!(笑)自邸に迎えるって何?!!それってちょっとすごい。しかもこんな短期間に。よっぽど好きだったのか。親がいなくて可哀想におもったのか。それにしても、定頼の母ってそんな美貌の持ち主だったのですね。じゃあ定頼本人も綺麗だったんだろうな。結婚時の昭平親王女の年齢が気になるところですね。

高光さんが出家したのが何故かっていうのは分からないんですが、雅子内親王の子どもたちってあまり出世欲がないというか。為光さんも太政大臣まで上り詰めた政治家なのですが、兄弟たちに目をつけられないように当たらず障らずで上手く世渡りしてたようなイメージがあります。でも、子どもがいるのに出家したのはすごい。未練が残りそうだけどなぁ。

昭平さんは親王に復帰したとき、常陸太守という役目を与えられていたみたいです。常陸の国は裕福だったから(『源氏物語』の常陸の介のイメージ)物資には困らなさそうですけど、まぁ、政界からは追放って感じですねぇ(涙)。永観二年(九八四)に出家。三井寺に住み、のちに岩蔵に移ったので、岩蔵院と号され、入道九品とも呼ばれる。長和二年(一〇二三)六月二十八日に六十歳で没している。不遇の一生ですね。

ちなみに、昭平親王女(定頼母)は、勅撰集に二首入集しているようです。ちょいと調べてみました。なんか、どっちも悲しい歌だな(^_^;)

●二条前太政大臣のめなくなりてのち、おちたるかみを見てよみ侍ける   中納言定頼母
 あたにかく おつとおもひし むは玉の かみこそなかき かたみなりけれ(後拾遺和歌集第十 哀傷)

●むすめの身まかりけるか、念珠をうしなひて侍けるを物のなかより見いてたるとて、三条女御の許よりかへしをくりて侍けるを見て
 別にし 人をかくても みてしかな 程へてかへる 玉もありけり(玉葉和歌集巻第十七 雑歌四)

↓の本は欲しいくらい。でも、実際に読んでみてほしかったら買うかな。まだ書店にも置いてないようなので、図書館に入るのはいつだろう。早く読みたいなぁ~。

書き込み、ありがとうございました(*^_^*)

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