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元号・時間・方角

 元号の問題については、不明瞭な点も多く、現代に残されている資料から当時どう読まれていたかを判断するのは非常に難しい問題であるが、平安時代の「寛平」という年号について考察してみたいと思う。

 現在、「寛平」という年号は「かんぴょう」とルビをふられるのが普通になっており、『歴代天皇・年号事典』にも、「かんぴょう」と書かれ、補足のように「かんぺい」とも読むと記されている。しかし、「平」という字の「ヒョウ」という発音は、呉音である。平安時代の初め、現在で言うところの大学や大学院に当る大学寮では、国の法律で奈良時代まで使われていた呉音を漢音に改めて使うことが決められた。つまり、平安時代に考えられたこの元号を「かんぴょう」と読んでいた人間はおらず、皆「かんぺい(もしくはかんへいかもしれないが)」と読んでいたことになる。その証拠に、様々な書物を引用しその読み方を考証している山田孝雄氏の『年号読方考証稿』に中では、「かんぴょう」と書かれた書物を見出すことはできない。さらに、時代は下るがポルトガル人のロドリゲスが聞きとった音も、”Quampei”と記されており、他国の人間の耳にも「かんぺい」と聞こえたようである。いったいいつの時代から「かんぴょう」と読むことになったか分からないが、現在の読み方に問題があることは否めないであろう。

 さて、改元を行う理由であるが、記録に見えるものはほぼ先ほど紹介した『歴代天皇・年号事典』にまとめられている。また、平安時代に関して言えば、男性貴族の日記にも当然改元のことが見られるのである。例えば、平安中期の最も有名な貴族である藤原道長の日記『御堂関白記』にもその記録が見られ、長保六年(寛弘一年)七月二十日の条には「其後下改元詔書、改元為寛弘、有諸卿定申、寛仁宜者、而左大弁(忠輔)申云、仁字是諱字也、為之如何」と見えるので当初は「寛仁」と改元する予定であったのが、忠輔が一条天皇の諱「懐仁(やすひと)」の「仁」という文字が元号に入るのを難じたために「寛弘」になったようである。ちなみに、この「寛仁」という年号は、一条天皇の二代後、一条の息子である後一条天皇の御世において使用されている。

 さて、平安時代に時間を知らせる方法として、お寺の鐘はもちろん、宮中では時を知らせる人がいたようである。清少納言の『枕草子』では「時奏する、いみじうをかし。いみじう寒き夜中ばかりなど、ごほごほとごほめき、沓すり來て、弦うち鳴らしてなん、「何のなにがし、時丑三つ、子四つ」など、はるかなる聲にいひて、時の杭さす音など、いみじうをかし。「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ。すべて、なにもなにも、ただ四つのみぞ、杭にはさしける」(『枕草子』二九〇段)と書かれており、鳴弦と杭で時間を知らせていたようである。『延喜式』によると、鼓で時を報じるのに、子丑は各九つ、丑未には八つ、寅申には七つ、卯酉には六つ、辰戌には五つ、巳亥には四つ打つとあり、清少納言が「「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ」と言っているのは、この鼓によって宮中の外に時間が知らされ、民間ではその鼓の音を頼りに、時間を知る基準に使っていたために俗称が発生したものと思われる。

 男性貴族が天皇の物忌みで一緒に籠ることになれば、枕草子で藤原行成が「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなん」(『枕草子』一三六段)と言っているように、丑の刻までに宮中に行っていないと難じられたようである。各個人に時計がないにしても遅刻すれば咎められることもあり、毎日の日記にしっかりと遅刻者が記録されているところから見ても、意外に時間にうるさい人がいたようである。

 さて、貴族たちの庭造りについて詳細な意見が陳べられている本に藤原頼通の養子になった橘俊綱が著したとされる『作庭記』がある。この本は、庭園を造る場合の指南書である。土木工事に関わることより、有職故実や陰陽道に則って禁忌とすべき点などが陳べられている。特に、樹事の項目では四神相応の思想が如実に見られるのであり、東に鑓水がなければ柳九本を植えて青龍の代わりとし、西に大道がなければ楸七本を植えて白虎の代わりとし、南に池がなければ桂九本を植えて朱雀の代わりとし、北に岡がなければ楡(檜と解す説もあり)を三本植えて玄武の代わりとするとされる。現在の京都御所は、もとは里内裏(正式の内裏が火災等で使用できない際の臨時の内裏)の一つで、土御門東洞院殿と言い、元弘元年(一三三一)、北朝の光厳天皇が最初に使用したものである。現在は幾度かの火災の後建て直された御所であるので、何を基準に建て直されたか知りえないが、もともとはこういった『作庭記』など貴族の屋敷を造る場合の有職故実に則って建てられた邸だったのではないかと考えられるのである。

■参考文献
『歴代天皇・年号事典』 米田雄介編
『年号読方考証稿』 山田孝雄
『大日本古記録 御堂関白記』
『枕草子 日本文学大系』 池田亀鑑他
『「作庭記」の世界 -平安朝の庭園美-』 森蘊

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